大野城トレイル~田園と牛頸川ルート~ mission 牛頸川に沿って牛頸ダムまで南下する長いルート。田園風景や自然を感じられ、ダム周辺では水と森の心地良さが感じられます。初夏にはホタルが見られます。地点近辺に駐車スペースがない場合もあります。ご了承ください) 大野城心のふるさと館 大野城心のふるさと館は、「歴史・こども・にぎわい」をキーワードに、「ふるさと大野城」をまるごと体感できる施設です。大野城市の歴史の紹介はもちろん、魅力満載の特別展や各種イベント、小さなお子さんが気軽に遊べるコーナー、ゆっくりくつろげるカフェ・ショップもあります。入場無料!ぜひご来館ください!※QRコードは1階総合案内横に掲示されています。 MAPを見る 不動城跡 不動城跡は、大野城市の南部、牛頸3丁目の通称「城の山(じょうのやま)」に残る戦国時代の山城で、住宅地開発のため部分的に削平されましたが、主要部分は保存されて山頂には遺構が見られます。 『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』や牛頸区にある奈良原兵庫助高政(ならはらひょうごのすけたかまさ)の墓碑銘に記録があり、それらによれば、秋月氏に従う奈良原刑部少輔(ならはらきょうぶのしょうすけ)が城を築いたこと、その子孫の奈良原兵庫助は豊臣秀吉の九州攻めの時に討ち死にしたことなどが記されています。 このため、長らくそれが史実とされていましたが、近年、『筑紫家文書』などの調査研究により、築城は奈良原氏によるが、秀吉の九州攻め当時には、すでに秋月氏方から筑紫氏方の端城になっていたことが判明しました。 MAPを見る 山の神 牛頸には現在2カ所に「山の神」がまつられています。「山の神」とは、山を支配する神様のことで、牛頸の井出地区では毎10月17日と20日に神事がとりおこなわれます。 MAPを見る 牛頸ダム 昭和40年に完成した大野町営ダムでは治水力がなく、洪水により水害等が発生し、また人口増加により従来の16万トン貯水量では、水不足になったため現在の牛頸ダムが造られました。 県営牛頸ダムは、二級河川御笠川水系牛頸川の大野城市大字牛頸地先に治水ダムとして建設されました。ダムはロックフィルダムとして高さ52.7m、総貯水容量2,280,000㎥、有効貯水容量2,100,000㎥で、洪水調節、流水の正常な機能の維持を目的としています。このダムの建設にあわせて、いこいの森水辺公園やいこいの森中央公園、ダム周回道路等が整備され、かつては山林だったダム周辺の土地は、民間の開発により宅地化されています。また、ダムの麓の牛頸川では大野城市では唯一蛍を観ることができ、6月の時期になると、多くの見物客で賑わいます。 MAPを見る 牛頸の田園風景(田園風景VP) 明治から昭和初期の大野村(現大野城市)は全世帯数のうち農家の割合が約7 割を超え、純農村地帯を形成していました。その後、福岡都市圏のベットタウンとして市街化が進む中、広い範囲で農地が失われ、現在、市内で唯一牛頸川上流に地形・地質を生かした田園地帯が約1km にわたり残されています。 夏には稲が育ち青々とした風景、秋には黄金色に染まる稲穂や彼岸花など、季節の移り変わりにあわせ、様々な風景を楽しむことができます。 この牛頸川沿いの農地は、大野城市の農耕文化を感じることのできる貴重な場所となっています。農地を巡り、ふるさと大野城の原風景を感じて下さい。 MAPを見る 薬師の杜 畑の中にある鎮守の森で、薬師堂の境内となっています。エノキ・クスノキ・タブノキ・ヤブニッケイ・クロキ・ヤブツバキなどから構成されています。特にエノキは最大級に成長したものです。またエノキにはキズタが登っていて、独特な雰囲気を出しています。 この薬師堂にまつ祀られているお薬師様は目の神様としてあがめられています。 MAPを見る 牛頸小学校跡 明治5(1872)年の「学制」公布後、明治11(1878)年に平野神社北側(赤囲い付近、校地54坪、校舎その他建坪19.5坪)の地に「牛頸下等小学校」が創設されました。その後、明治12(1879)年に「教育令」が公布され、「牛頸小学校」へと名称が改められ、その後「牛頸小学簡易科」、「牛頸尋常小学校」と改称が行われました。明治26(1893)年、生徒が増加して校地校舎が手狭になったため、平野神社南側(黄囲い付近、校地135坪、校舎その他建坪38.5坪)の地へ移転しました。明治41(1908)年「小学校令」の一部改正により修業年限が4年から6年へと変更になり、校地校舎が手狭になったため、現在の南コミュニティ西側のさくら公園の地(青囲い付近、校地1,548坪、校舎その他建坪99坪)に移転しました。高台への移転となったため、児童が交代で押し上げ手押しポンプを2台中継して水槽を満たし、用水として利用していたそうです。 昭和45(1970)年以降、南ヶ丘、平野台、つつじヶ丘などの大型の新興住宅の造成により、牛頸小学校の児童が急増しました。それまでの校地校舎では狭くなったので、昭和46年(1971)4月から現在の大野南小学校の地に鉄筋校舎を新築して移転し、校名も「大野南小学校」と改称しました。 この碑は移転前の牛頸小学校を記念して昭和46年3月に建てられており、牛頸小学校と書かれた木製の看板は平野小学校に保管されています。 MAPを見る 戻る